引き算を生きる、ということ

いまからちょうど一年前、去年の9月の終わりに、父方の祖父が他界した。

 

親戚の死を体験するのは、10歳の時に母方の曾祖母が亡くなったとき以来だった。

その時は、母の故郷の親戚から突然「ひいおばあちゃんが倒れた」と連絡があって、駆け付けた時にはもう亡くなっていた。突然のお別れに、小学生だった僕が感じたショックと悲しみは大きかった。

 

それに対して、祖父は今回、数年をかけて衰弱し、ああ、もう死ぬんだな、という実感を周囲に与えながら(そしてきっと、自分でも覚悟をしながら)、ゆっくりと死んでいった。「死」という一点に向かって、徐々に徐々に、彼の生の灯が消えていった。

だから僕も、祖父の危篤の知らせを受けた時も、そして亡くなったときも、ショックや悲しさはさしてなかった。ああ「その時」が来たのか、とぼんやり感じるのみだった。

 

人が死ぬということは、チープな小説やドラマと違い、現実には美談では済まされない。

死に向かって衰弱していく、すなわち一人でできることが減っていく。それはしんどいことだ。

祖父も、歩くことや、排便や、自分で起き上がることなど、これまで何十年も当たり前のようにできていたことが、一つ、また一つとできなくなっていった。

祖父が衰弱していった最期の数年間、両親は介護が本当に大変そうだった。そして何より祖父自身も、情けなさと苛立ちを募らせているのが明らかだった。

 

もし生き続けることが、自分にとっても他人にとっても負担に感じられるようになってしまったとき、僕らはどうすればいいのだろう。僕は生きたいだろうか。

不謹慎かもしれないけれど、会うたびに衰弱する祖父を見るたびに、僕はそんなことを思っていた。

祖父はどうだったのだろう。晩年、自分の死が少しずつ近づいてくるのが分かったとき、それでも少しでも長く生きたいと思ったのだろうか。もしそうだとしたら、生きるモチベーションはなんだったのだろう。そして元気だった頃の祖父は、こういう風に一生を終えるのだという事を、どれだけ予測して、覚悟していただろうか。

そんなことを本人に聞く訳にもいかず、結局お別れとなってしまった。

 

f:id:ss_fj:20190513230118j:plain

 

それから一年が経ち、今僕は大学を卒業して、会社員として生きている。

いまの僕を支えている要素の一つは、きっと若さだ。

同級生や長い間の友達と会うと、冗談半分で「歳取ったねー」なんて言い合いがちだけれど、23歳という年齢は、やはり世間全体から見ればまだ若い。

そして僕は、その若さを拠り所とした、様々な希望や夢を抱いている。それは一言でいえば、より多くのことをできるようになりたいという希望であり、したいという夢だ。

行ってみたい場所、経験してみたいこと、知りたいこと、読みたい本、学んでみたい言語…幸い、今の自分にはそういうものが色々ある。さらに仕事という面でも、もっといろいろな能力を身に付けて、思考して、行動していきたいと思っている。

だからいま、僕は将来の自分を描くとき、基本的に今の自分に足し算をする形でそれを想像している。もちろん将来への不安はあるけれど、それでも将来の自分は、今の自分よりも物事を知っていて、経験していて、成長しているはず…そんな風に思えるのは、きっととても恵まれたことだ。

 

考えてみれば、近代的な価値観ではずっと、時間の経過はすなわち進歩だとされてきた。生きることは、自分の成長や種の繁栄の為だと考えられてきた。

近代資本主義はそんな、皆今よりも「+」を手に入れたいんだ、そして社会はみんなに「+」を与えていくんだ、という価値観で動いている。

その象徴が、街やテレビや電車を飾っている広告だ。

肌を綺麗にしよう。美しい体を手に入れよう。英語を話せるようになろう。家を買おう。

近代への批判が盛んになされるようになった昨今でも、基本的にそのシステムは変わっていないと思う。そして僕も、そのシステムの中で、その考え方をある程度内在化させて、いまを生きている。

 

でも僕が祖父の晩年に見たのは、その正反対の姿――電球の明かりが一つずつ消えていくように、時と共にできることが一つ、そしてまた一つと、減っていく姿だった。

そして僕は、そんな祖父の姿——生きることが、時が流れることが、すなわち引き算である姿——は、ずっとずっと先、ひたすら人生の足し算を重ねた先にある自分の姿なんだろうな、と思った。

僕だっていつか、歳をとって、老いて、できることが減っていって、死ぬ。

成長というけれど、成熟というけれど、それを積み重ね、欲求を満たしたその先に待っているのは、希望なのか。

平均寿命がまだまだ延びると予測されている、これからの時代。長生きすることは、よりたくさん足し算ができるということになのか。それとも・・・より長い時間、引き算と向き合うことなのだろうか。

 

たまにふとそんなことを考え、訳が分からなくなる。

それでも、過ぎてゆく一日一日を、僕はやり過ごして行かなくてはならない。

 

f:id:ss_fj:20190617234415j:plain