2015年、インドのとある滝壺で、国境について考えた。

 
僕は、滝壺の真ん中にひょっこりと姿を出した岩場に寝転んで、ぼんやりと時を過ごしていた。
すぐ右には、インド人青年ヴァンが、その背の高い体を窮屈そうに丸めながら、隣の岩の上に寝転がっている。
 
遥か上の方から滝として流れ落ちてきた水は、僕がいる滝壺を通って、川となり急な斜面を勢い良く下ってゆく。
それが流れゆく先遥か下に、マナーリーの集落がある。
 
その景色すべてを、滝が豪快に流れ落ちる音が包み込んでいた。
 
 
僕はその日、三日間滞在したマナーリーの街を夕方のバスで発ち、デリーへ向かうことになっていた。
バスの出発まで時間があったので、その時行程を共にしていたインド人青年のヴァンと共に、郊外にある滝を見に来たのである。
 
南インド出身のヴァンは、一人でインド一周旅をしている途中だった。マナーリーを訪れる前、スピティという地域へ向かうバスの中で、偶然隣り合わせになり、ここまで合計6日間の旅程を共にした。
医者をしているという彼は喜怒哀楽が激しく、何かを見るとすぐに自分の主張を述べたり、それに対する感情を表したりしたがる人間で、その姿は僕がイメージする「典型的なインド人」そのものだった。
 
そして彼はまた、きっと多くのインド人がそうであるように、話好きな人間だった。
だから僕らは旅行中、本当にたくさんの議論をした。
 
スピティ谷でのある夜、停電で真っ暗なレストランで麺をすすりながら、インド政治の腐敗について、宗教について話した。
そしてある時は寺院へ向かう車の中で、「豊かな国」とは何なのか、同行していた別の旅行客も巻き込んでずっと議論した。
 
僕らの意見はほとんど一致することはなかったし、むしろ殆どの場合、真っ向から対立した。
イスラム教をためらいなく侮辱し敵対視するヴァン(どうやら彼はパキスタンはもちろん、インドがムガル帝国支配下にあったという歴史さえも心から憎んでいるらしかった)と、宗教に基づいて他者を排外するのは良くないと主張する僕。
経済成長や近代化にこそ正義を見出す彼と、物質的豊かさは必ずしも人間の幸福につながらないと考える僕。
 
どうやら、インド人エリートの彼と日本人大学生の僕の考え方には、それぞれが生まれ育った環境による、途方も無い壁があるようだった。
そのどちらも同じように社会・時代に影響されたもので、いずれかに絶対的な正解を求めることは不可能だろう。
まったく異なる常識に生きる彼と議論することは、しばしばとてつもない疲労を僕にもたらしたが、しかしそれは同時に、僕にさまざまなことを教えてくれた。
 
あるとき、いつものようにインドの政治に対する不平不満をひとしきり述べた後、彼は僕にこうつぶやいた。
「いいよな、君みたいな外国人旅行客は。この国の表面ばかりを見て楽しんで、「インドはいい国だった」なんて後からのんきに思い返せばいいんだから」
そう言われて、僕は少しムッとした。
僕だって、インド政治の腐敗やインド社会の格差についてはある程度知っているし、旅行の中でそういったものを見てきた。インド社会の「いいところ」だけ見て満足しているつもりでは、決してない。
インドの都市部にあふれる路上生活者や物乞いの姿を思い浮かべながら、僕はそう言い返そうとした。
でもすぐにやめた。
外国人旅行客に過ぎない僕がそう発言するのは、インド社会の中で生きてその矛盾に本気で怒りを感じている彼に対して、ものすごく失礼なことのように思えたのだ。
というのも、旅行先の現実なんて、しょせん僕らにとっては「外国の現実」に過ぎない。
道徳とかそういうものと関係なしに、やはり外国人観光客の僕と現地人の彼では、同じものを見ていても、やはりその受け止め方の重さが明らかに異なるだろう。
日本に帰れば僕はきっと、インド旅行でどんな珍しいものを見て、どんな経験をしたかについて得意げに周囲に語るだろう。
そしてすべてひっくるめて、こう簡単にまとめてしまうに違いない。「いい経験だった」と。
一方で彼は、このインド社会の中で30年以上生きてきて、インドのさまざまなことに対して、心から怒っている。
少しでも「いい方向」にインド社会が向かうことを本気で願っている。(思い描く「いい方向」が、必ずしも僕ら先進国の人間が思い描くそれと一致しないにしても、だ。)
だから、単なる旅行者の僕が、彼と同じようにインド社会の問題を理解しているなんて考えるのは、非常に傲慢なことだと、そう思ったのだ。
 
 
滝を訪れたこの日は、僕らが行動を共にする、最後の日だった。
マナーリーを発った後、僕はデリーに戻り、そこから日本へ帰る。そして彼は自分の暮らす南インドの街に帰って、仕事に戻る。
旅行という「非日常」の中で偶然出会った僕らが、それぞれの日常へ帰っていく前の最後の時。僕らが共に滝壺で過ごしていたのは、そんな時間だった。
 

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右側から物音がして、目が覚めた。
マナーリーの滝の中、ごうごうと鳴り響く水の音に包まれて、いつの間にか寝てしまったようだ。
 
僕を現実に引き戻したその音は、横で同じように寝転がっていたヴァンが起き上がった音だった。
 
滝の音というのは不思議なもので、自分がその音に包み込まれているような感覚にさせる。
実際は滝が流れ落ちてきているのは自分の背後なのだが、前からも上からも下からも、まるで自分が滝の音という名の球体の中へ入り込んでしまったかのように、すべての方向からごうごうと絶え間なく音がやってくるのである。
 
暫くの間僕らは言葉をかわすことなく、ただ岩の上で横並びに座っていた。
 
物音を立て、音の球体をぶち壊したのは、再びヴァンだった。
彼は立ち上がり、僕らの後ろで育っていた木から、おもむろに葉っぱをちぎり取った。そして、それを滝壺に投げた。
葉っぱは、しばらく滝つぼの中をぐるぐるさまよった後、水の流れに押されるようにしてゆっくりと流れてゆき、やがて僕らの視界から消えた。
 
僕が葉っぱの動きを目で追っていると、ヴァンがこっちを向いてきて言った。
 
「この葉っぱは、これから水の流れに乗って長い長い旅をするんだ」
 
そして、顔の筋肉をすべて使ったかのように大きくニヤッと笑った。インドの成人男性というのは、たまに日本人の感覚からすれば無邪気に感じられるほど、大きな笑顔を顔に浮かべる。
 
僕は、彼が急に切り出した話のロマンチックさにいささか驚きながら、話を続けた。
 
「この川は、どこまで続いてるのかな」
 
すると彼は視線を遠くに移し、僕らの目下、遥か先に続いている川とマナーリーの町並みを仰いで言う。
 
パキスタンじゃないかな」
 
パキスタン。僕は彼が言ったその国名を、頭のなかで繰り返した。
彼がインドの山奥で投げたこのちっぽけな葉っぱは、川の流れに見を任せ長い長い旅を続けて、いつか国境を跨いでパキスタンに入り、そしてアラビア海に注ぐ。
そこに至るまでには、たいへんな時間がかかるだろう。でもその「いつか」はきっと存在する。あるいはその長い旅の中で葉っぱがよどみに入ってしまったり、何かに食べられたりしてしまっても、いま僕の目の前を勢い良く下ってゆくこの水は、必ずいつか海に出るのだ。
そんなのは当たり前な自然の摂理なのだけれど、僕は国をまたぐそのスケールの大きさに、えらく感動を覚えた。
「インドの人は…パキスタンには行けるの?」
僕はふと気になって、彼に尋ねた。
「それはできない。一般人が行くのはまず無理だね。」
それに返す言葉を見つけられなかった。
いま目の前から姿を消した葉っぱが、これから辿っていく旅路。それは、ただ川に流されて海に出るだけのシンプルな道だけれど、僕の横にいる一人の人間にとっては、その途中に、どうしても通れない見えない壁があるのだ。
その事実は、ただただ僕にまとわりついた。悲しさとか怒りとか、そういう感情は沸いてこない。ただ、服についたばかりのシミのように、その事実が僕の心の中でじわじわと面積を広げ、やがて心全体を支配した。
人は太古から利害をめぐって、考え方の違いをめぐって、絶え間なく争い合ってきた。
流れに身を任せて流れ行く水や葉っぱとは違い、人には欲望があり、憎しみの感情がある。だから争いあい、傷つけ合う。
そして数百年前、そんな状況を少しでも良くするために、人々は世界地図に線引きし区分して、それぞれのはっきりとした「縄張り」をつくった。人々を別々の「縄張り」の中に縛り付けることで、つまり人々の自由を制限することで、「平和」をもたらそうとしたのである。
この場所でも、人々は宗教の違いをめぐって対立し、その解決策として、70年ほど前にその「線引き」をした。
でも逆に言えば、人間はそうでもしないと争いを止められないのだ。いや、そんな風に線引をしても争いは止まない。
潜在的に人間は野蛮なのだろう。あるいは、野蛮な一面を隠し持っている。だから水や葉っぱとは違い、自らに制限を課さないと、いとも簡単に悲惨な状況を生み出してしまう。
文明というのは、そして理性というのは、そんな人間の「野蛮」さを何とかして覆い隠し、制御するためにつくりだされたものに過ぎない。
僕らは、一葉の小さな葉っぱが何ともなしに超えられる一線を超えることができないからこそ、かろうじて理性的に、平和を紛いなりにも維持できているのだ。
悲しいな、と思った。
ヴァンは隣で何を考えていたのだろう。遠くの風景を仰いだまま、それ以上何も言わなかった。
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こうして、僕らが一緒に過ごす最後の時間は終わった。
僕らはマナーリーの町の宿に戻り、そしてそれぞれの次の目的地へと向かう。
別れ際、彼は僕のノートにメールアドレスを書いてくれた。しかし文字が汚くて読むことができず、その後彼との連絡は一切できていない。
ぼくは今思う。あの葉っぱが水の流れに乗って「いつか」パキスタンに入って、やがてアラビア海に注ぐのと同じように、インド人が自由にパキスタンに行ける日も「いつか」来るのだろうかと。
どれほど先になるのかはわからないけれど、そんな未来があって欲しい。
彼はいま何処にいるのだろう。とある夜に語ってくれた、アメリカに行ってみたいという夢は叶えたのだろうか。
喜怒哀楽をオーバーに表しながら、時々あの大きな笑顔を浮かべながら暮らしている姿を想像して、またどこか出会えるといいな、と思う。